本日7月28日は、「ピーターラビット」の生みの親、ビアトリクスの誕生日です。9月4日のピーターラビットが誕生した日は盛り上がりますが、作者の誕生日は知名度が低い。生誕150周年の2016年は、大規模展覧会やイベントが企画され盛り上がりましたね。次の生誕祭は200周年となる2066年でしょうか?自分の年齢を考えると200周年は無理ですが、日本でも作者のこともっと広く知ってもらえるといいなと思います。
The Journal of Beatrix Potter 1966年出版 フレデリック・ウォーン社
ビアトリクスが15歳(1881年)から書き始めた暗号日記です。暗号で書かれたのは、誰にも見られたくない、特に対立することが多かった母親の目から逃れるためでした。この暗号は、1958年まで解読不能でしたが、エンジニアでビアトリクス・ポター研究者であるレズリー・リンダーが解読に成功しました。
解読できたのは、1882年1月29日(土)に書いた日記で、「1793年、ルイ16世の処刑に立ち会った107歳の老婆が、先週の土曜日にパリで埋葬された」という部分の、1793という数字とXVIというローマ数字が歴史的事実にリンクして、そこから暗号文字を読み解いたというから、そのヒントがなければ今でもその内容は誰にも知られることがなかったかもしれません。
私は、この日記を読みたいと常日頃から思っているのですが、日記というのは本人にしか分からない感情で書かれたものが多いですから難解なものが多いのに、それが英語ですからさらにハードルが高いです。出版されてから50年以上経過しても翻訳本が出る気配はないですし、英語力はゼロですが、翻訳に挑戦してみることにしました。
まずは1882年、16歳になる前後の日記を翻訳してみました。16歳は、ビアトリクスが第2の人生を送ることになる湖水地方に避暑で初めて訪れる年です。アンブルサイドに近いウィンダミア湖の北西にある、レイ・カースルという屋敷で7月後半から10月初めまで過ごしました。
ビアトリクスの生涯を読むと、この地でビアトリクスの恩人で尊敬する牧師ハードウィック・ローンズリーと出会うのですが、日記には1行もその記述はありません。レイ・カースルを建てた医者のドーソンについては、事細かく記載しているというのにです。もしかして出会わなかったのか?それとも日記に書くほどの印象は持たなかったのか?謎です。その後ローンズリー牧師は、『ピーターラビットのおはなし』を出版する際のキーパーソンになったことは事実ですけれどもね。
まだほんの少ししか翻訳していないのに、語るには時期尚早ですが、これは日本語翻訳されないような気がします。ビアトリクスのブラックな部分というか、ここはオブラートに包んで表現した方が良いのではというのが結構あります。特に絵画作品に関するコメントが辛辣すぎます。日記は誰かに見せる前提で書きませんからね。
Beatrix Potter A Holiday Diary 1996年出版 ビアトリクス・ポター協会
日記と言えば、ビアトリクスは1905年にも日記を書きました。婚約者ノーマン・ウォーンが病に倒れ、心配でたまらないビアトリクスが何かせずにはいられなくて8月12日より滞在先のウェールズのラベンドゥルの景色やペットのことなど書き始め、8月22日まで書いて、ノーマンが8月25日に死去した後空白の数日間があり、8月29日に書いた日記が最後です。
ビアトリクスの日記として出版されているものは主にこの2冊です。
もうひとつ忘れてないですか?とツッコまれる前に書きますが、『ビアトリクス・ポターの日記 しかけえほん』2013年出版 大日本映画があります。こちらは日本語訳版もありますので購入された方も多いのではないでしょうか?しかし、こちらはとてもちいさな、ちっちゃくて、ちいさい文字で「この日記はフィクションです」と書いてあります。フィクションですから、オブラートに包んで書いたり、こことあそこを結び付けたりできますものね。しかし、フィクションで書かれたものをビアトリクスの日記として堂々とテレビ番組で紹介されていたのには驚きましたが。
さて、1882年を翻訳しただけですが、難解すぎて既にギブアップしております。私以外にも多くの方が翻訳にチャレンジしていることと思います。そういった方々とチームを組んで取り組めたら、いつかゴールできそうな気がします。
ところで今月9月中旬に発行予定のビアトリクス・ポター資料館の機関紙ニューズレターは、大東文化大学創立100周年を記念してページ数を増やし豪華版となるそうです。なんとその機関紙に私が書いたエッセイを掲載していただけるとのことで、こちらもどうぞお楽しみに。
最後にハッピーバースデイ!ビアトリクス・ポター!お読みいただきありがとうございました。
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