最初に出版されたビアトリクス・ポターのアート集

 前回のブログで紹介したビアトリクス・ポターの1881年から1897年までの日記の内、1882年に続き1883年の翻訳が終わりました。私の場合は、「翻訳」という代物ではなく、ただの意訳レベルです。書いてある内容がおおよそこんな感じかな?といったものです。それでも書いてあることが読めるようになると楽しいです。

 1883年は、16歳から17歳という年齢です。この年は、11年間務めた家庭教師と、絵画専門の家庭教師が辞めるタイミングでした。これからの時間は絵を描くためだけに使おうと決心した矢先、再び新しい家庭教師アニー・カーターがやって来ることになりました。

「明るい気分の日もあれば、落ち込む日もあります。今日はかなり気持ちが沈んでいて、今は頭の中が空っぽで、特に何も感じません。いつになったら何もかも解決するのかしら?これが大人になるっていうことでしょうか?もし私が今の心の状態を知ることができるのであれば、それは私がダルガイズ・ハウスを失った時の気持ちに似ているかもしれません。」(1883年4月25日の日記より)

 ダルガイズ・ハウスというのは、スコットランドにあるお気に入りの避暑地で、5歳から11年間、15歳まで夏の3カ月間を過ごした場所です。この頃のビアトリクスは、ロンドンが学びの場所で、祖父母の住むカムフィールド・プレイスが自然と建物がマッチした全てが一体となった美しさを感じる場所で、ダルガイズ・ハウスが手つかずの秘境と幻想的な景色を育む場所でした。自分の居場所のひとつだったダルガイズ・ハウスを失う悲しさと、再び家庭教師から教育を受けなければいけない、親の決定に反抗できない辛い気持ちを掛け合わせてこのような表現になったのだと思います。

 そして家庭教師アニー・カーターと別の授業、これが謎に包まれていました。先生の名前は「ミセス・A」と記載され、週2回、全12回美術指導を受けました。これは両親がさらに高度なテクニックを学ばせようと、サウス・ケンジントンにあるアート・スクールへ通わせました。17歳までに第2級美術学生に合格し、課題作品に「優」をつけられたことが、さらなる高みを目指すきっかけになったのかもしれません。

 「ミセス・A」については、まだよく分かっていません。ただ、日記を読む限り、ビアトリクスは良い印象を受けていなかったようです。

「ミセス・Aのところへ行ってきました。それについて何を言えばいいのか分からない。どのような理由があろうとも絶対に誰にも言いませんが、あまり好きではないことは確かなことで残念です。あんなに月謝が高くなければいいのに、お金をドブに捨てているようなものではないかしら。私に悪影響がなければいいのですが?あの絵の具は好きじゃない。何故イギリスの絵の具を使ってはいけないのだろう」(1883年11月24日の日記より)

 ビアトリクスは次のレッスンで、ミセス・Aを克服する術を見つけました。

「驚くほど上手くいっていると思います。私は自分の使い古しの絵の具と、メディウムの溶剤と、ローニーのラフ・キャンパス(二重に下塗りをしている)を使用します。私はこれだけの月謝を払っても、ミセス・Aの影響を少しも受けるつもりもないと告白しておきます。私は下絵が理解できないし、どういう訳か気に入らないのです。非常に多くの画家が下絵を使っているのも知っています。ミスター・ミレイ(ジョン・エヴァレット・ミレイのこと)は下絵を使っていないと思いますが、レイノルズ卿(ジョシュア・レイノルズ卿のこと)がより迅速にペイントした頭部では、決して下絵を使用していないと思います。同じことの繰り返しでは、それを実行する独創性は失われてしまいます」

 下絵に関して言えば、ビアトリクスの原画展を担当された学芸員さんからまったく同じことを聞きました。「ビアトリクスの作品は、下絵があまりないように思える。下絵無しで迷い線が一切ないのが凄い」と。翻訳しながら、現代に聞いたことと、ビアトリクス本人の言葉が繋がった瞬間で感動しました。

 ミセス・Aは、油絵のテニックと、人物素描の描き方を教える先生でした。何故イニシャルなのか疑問だったのですが、この時代に女性が仕事に就く難しさと関係があるようです。「A」というイニシャルから「アニー・カーター」のことを指すのかもしれないと思った時期もありました。しかし、日記には「ミス・カーター」と書き分けていたし、ミセス・Aは、アート・スクールの先生で専門学校で教えていたので別人と分かった次第です。ちなみに人物素描の最初のモデルは、老婦人だったことも分かりました。

 ビアトリクスが好きな人は、何度も何度も日記を読んで、そして彼女のことがさらに好きになっている方々ばかりなんでしょうね。私も早くそのレベルになりたいです。いつになったら追いつくことができるのやら。1883年の翻訳は、1882年の倍のページありました。次の1884年は1883年の倍のページと、内容がさらに過密になっていきます(^^;

 最後にこの暗号日記を解読したレズリー・リンダーが出版した書籍の内、ビアトリクスの最初のアート集を紹介したいと思います。

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「The Art of Beatrix Potter」1955年出版
表紙にレズリー・リンダーの名前がなく、改訂版で記載されました。

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改訂版「The Art of Beatrix Potter」1972年出版(2回目の改訂版1975年)
改訂版では、イーニッド・リンダー(姉)と、レズリー・リンダーと記載されました。

 1955年出版された最初のアート集は、英国 湖水地方のアンブルサイドにあるアーミット・ライブラリーで見つけたもので、状態はあまり良くありませんが初版でした。この本を手に取るとあの時に見つけた感動が一緒に甦ります。改訂版は、初版よりもさらに作品数が増えてお得感が増します。ただこの時代の印刷技術の発展は目覚ましいものがあり、改訂版で用紙を変更したことによる色の見え方が、少し明るすぎるような気がします。

 レズリー・リンダーのビアトリクス・ポター研究の功績はこれだけでなく、それぞれのおはなしが誕生した歴史を忠実に記録した『ビアトリクス・ポターの著作の履歴』(1971年出版)があります。こちらも研究者には欠かせない書籍ですが翻訳版はありません。日記を含めていつか翻訳版が出版される日があるでしょうか?最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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ピーターラビットの生みの親ビアトリクス・ポターの研究家で、作品について、開催されたピーターラビットのイベントやグッズ紹介、ピーターラビットの故郷英国について紹介するホームページ「ラピータの部屋」のブログです。
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